米国留学を経て、1925年に帰国してからは兄,四郎と共に日本ゴルフ黎明期の牽引車であった。JGA(日本ゴルフ協会)の中心メンバーとして日本オープンを創設し、プロゴルファーの育成に努めた。コース設計にも手を染め、相模CC、我孫子GC、藤沢GC(現存せず)を遺した。

名門プリンストン大学でゴルフに出会う

 赤星家は薩摩藩出身、赤星弥之助が明治時代に軍艦の装備品である銃器全般を扱うアームストロング社の代理店を営み武器商人として巨万の富を築いた。弥之助はこれらの財産を使い果たそうとして、まずは鉄馬、四郎、六郎の3人の男児を米国留学させた。

 六郎は名門、プリンストン大学に進み、ここでゴルフに出会っている。在学中の1924年にはパインハーストCCで開催された「スプリング・トーナメント」で優勝。海外での日本人初勝利であった。

 1925年に帰国してからは、日本ゴルフ界に八面六臂の活躍を見せた。第1回日本オープンを創設し、自ら出場し、2位に10打差つける圧勝。現在までアマ優勝者は六郎ただ1人だ。米国最先端のゴルフ理論を宮本留吉、安田幸吉、戸田藤一郎らに与え、育成した。1935年には6名のプロを全米オープンに出場させている。

画像: ゴルフを教える赤星六郎

ゴルフを教える赤星六郎

アリソンのコーディネーターを務める

 プレーヤー、コーチ、オーガナイザーとして非凡な才能を発揮した六郎はコース設計においても優れた理念を持っていた。いちばん最初に携わったのは東京GC朝霞コース、川奈ホテルGC、廣野GCを設計したチャールズ・アリソンのコーディネーターの役目を果たした時だ。アリソンの謦咳(けいがい)に接して、コース設計の神髄を知り、それが我孫子GC(1930年開場)、相模CC(1931年開場)へとつながっていく。アリソンとは、六郎が英国訪問した折、オックスフォードとケンブリッジ対抗戦のあとの晩餐会で同じテーブル隣の席で親交を温めている。

六郎は1937年2月発行の『ゴルフ』(目黒書店)に自ら設計者としての心構えを語っているので、引用してみよう。「ゴルフアーキテクチュアと言うものは、唯幾何学的でのみ進むことが定石でもあり又必要なことであるが、その内にアーキテクト自身の持っている芸術的な和らかさが織り込まれた時で無ければ、其のゴルフ場が理想的なものになったと言う事は出来ない」

コース設計には芸術的和らかさが必要

 六郎はゴルフ場が単なる土木工事だけに拠るのではなく、そこに芸術的香りが必要とっているわけだ。我孫子、相模料両コースには日本庭園の象徴というべき松林がある。これを背景に六郎はプレーヤーとして見地から、名コースの条件をあげている。例えば相模ではコースのディスタンスを各プレーヤーがドライバーで240~270ヤード、2番アイアンで180~190ヤード、マッシー(5番アイアン)140~150ヤード、ニブリック(9番アイアン)125ヤード以内であることを条件とする。この条件が整った時、六郎の「夢」が実現されるというのだ。

 我孫子のバンカーは深く切り立っているが、これはサンドウェッジがジーン・サラゼンによって発明される2年前に造成されている。そこには名プレーヤーだった六郎の矜持が見てとれる。

画像: 我孫子ゴルフ倶楽部14番

我孫子ゴルフ倶楽部14番

 また六郎は米国留学時代、ヒッコリーシャフトからスチールシャフトの転換期でもあり、将来的にゴルフ用具の進化による技術の進歩に合わせ、コース改造も必要だと提言もしている。先見の明があったというべきだろう。

パインバレーでの体験が課罰型設計を生んだ

 六郎が在学中に体験したのは主に米国東部の伝統あるコースだった。プリンストン在学生であれば、世界NO1、パインバレーGCでラウンドすることができた。後にスコットランドのリンクスも体験しているが、やはり米国体験が色濃く残っていて、相模、我孫子両コースともパインバレーと同じく課罰型設計の様相を呈していた。

画像: パインバレーでの体験が課罰型設計を生んだ

 戦時中、敵性スポーツだったゴルフをプレーすることは難しく、兄、鉄馬が日本に持ち込んだブラックバス釣りで気を紛らわせていたが、釣り針が刺さる事故で敗血症となり42歳で没した。

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