広大な軽井沢の地に108ホールのリゾートコースを造成するプランナー&コース設計家として白羽の矢が立ったのは、米国で数々のリゾート地を開発、設計していた経験豊富なR・T・ジョーンズSrだった。

キャディから名門アイビー・リーグ大学へ

 ジョーンズSrは1906年、イングランド・ランカシャーに生まれ、幼年時に両親とともに米国へ移住。生活は貧苦にあえぎ、彼はプライベートクラブであるロチェスターG&CCでキャディの職に就く。あのウォルター・ヘーゲンのキャディも務め信頼は厚かったという。
 ロチェスターは裕福な会員たちで構成され、この会員たちの支援でジョーンズSrはなんとアイビー・リーグの一角を担う名門、コーネル大学へと進学するから、よほど才気に溢れていたのだろう。その才能を会員たちは認め、大学へ送り出したのだ。
 コーネル大では設計に必要な工学、農学、美術、経済学など学び、さらにロチェスター大では設計学を修めている。ゴルフ部キャプテンを務め、HCは0、スクラッチプレーヤーであった。

画像: 晩年のロバート・トレント・ジョーンズ・シニア

晩年のロバート・トレント・ジョーンズ・シニア

球聖ボビー・ジョーンズから評価

 設計者として転機となったのは、1946年、第2次世界大戦の影響で荒廃していたオーガスタナショナルGCの復元工事に参加したことである。現在のバンカー、グリーンの基となる復元作業が球聖、ボビー・ジョーンズに高く評価され、球聖が晩年、ホームコースとしたピーチツリーGCのフォアマン(造成監督)を依頼された。ここからジョーンズSrの成功物語は花開いていく。
 ジョーンズSrの設計理念を体現したのはヒロイック・デザイン(英雄型設計)である。
 例えば、フェアウェイを斜めにクリークを配する。もしこれをクリアする飛距離があればホール攻略は何倍にも楽になる。飛ばない人はクリーク手前に刻み、次打に望みをかけるしかない。つまり攻撃的、扇情的シーンが現出されるわけだ。
 このシーンを何度も創り出したのは新星、アーノルド・パーマーであった。トーナメントにはアーニーズ・アーミーというファンが大挙して押しかけ、パーマーを一躍、人気者にした。時、あたかもTV時代の幕開けで全米本土に生放映され、これが人気に拍車をかけ、パーマーは国民的英雄となった。続いてジャック・ニクラスがパワーゴルフの体現者として続き、ゴルフはメジャーとなった。
 時の大統領、アイゼンハワーもこれを後押しして、ゴルフは人口に膾炙(かいしゃ)した。

時代の要請に対応した英雄型設計

 この英雄型設計の典型は改造したオークランド・ヒルズCCの16番パー4。距離は短いが右ドッグレッグするコーナーはすべて池でグリーンまで迫り、これを第2打でクリアしてグリーンオンすれば、拍手喝采間違いなしであろう。同コースをベン・ホーガンは「モンスター」と呼んだ。
 ジョーンズSrの画期的設計手法は他にもある。パワーゴルフに呼応するように7000ヤードを越すレイアウト、長いティグラウンド、大きなグリーン、巨大なバンカー、池やクリークなども大胆に導入している。

日本のリゾートに画期的設計手法

 これらの設計手法は日本の軽井沢72でも採りいれられている。
 元々この地は湿地帯、ゴルフ場には向かないと思われた欠点を長所に変えた。広大な池を造り、その掘った土を湿地帯に埋めたのだ。大きな池やクリークがコースに“艶”を生み、リゾートとしての爽快感をゴルファーに与えた。
 60ヤードに達するかというティグラウンドは上級者からビギナーまで楽しめるための配慮であった。つまりそのホールの距離を長くしたければ、ティグラウンドのいちばん後ろにティアップさせればいい。家が2、3軒立ちそうな広いグリーンは、それだけの理由があった。
 それまでの日本の2グリーン制を打ち破る1グリーンとして成立させるには、継続性にそれだけの広さを必要としたのだ。
 ジュニアSrが設計したのは西コースだけだが、この設計理念は息子のR・T・ジョーンズジュニアに引き継がれた。

 ジョーンズSrの作品は日本では他にグランディ那須白川GCがある。世界ではアリゾナ州にある巨大リゾート地、RJTトレイル(グランドナショナルレイクC)、ペブルビーチにあるスパイグラスヒルGC、ハワイのマウナケアGC、スペインにはパルデマラGCなどがしっかりと大地に、巨匠の設計理念が刻み込まれている。

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