帝国ホテルに籠り10日間で書き上げた東京
アリソンが日本を訪れたのは1930年12月。すぐさまコース予定地の埼玉県膝折村(朝霞となったのは後年、皇族、朝香宮に因み、そのままでは不敬になるとして香を霞にして朝霞とした)を視察後、宿泊先の帝国ホテルに10日間こもって設計図を書き上げた。
方眼紙に書かれたコンター(等高線)入り図面は緻密で、ハンドライティングは教養の深さを物語り、灌漑施設や土壌研究など当時の先端技術が施されてあった。用地は21万5千坪、西北隅にクラブハウス(設計はアントニン・レーモンド)を配し、アウトは時計回り、インは逆に反時計回りのレイアウト。全長6700ヤード、パー74。各ホールは既存の松林、雑木林を活かし、バンカーは112ヶ所。ブラインドホールはなく、平坦な地形のため、マウンドを各所に設け、池は3番パーにのみ設置した。シェイパー(工事監督)は米国のジョージ・ベングレース。彼もまた日本ゴルフ界に多大な貢献をした。

東京ゴルフ倶楽部
急遽、アリソンに変更した川奈ホテル・富士
このアリソンの設計図を見た東京ゴルフ倶楽部招致担当、日本ゴルフ協会(JGA)創設にかかわった大谷光明、当時の日本ゴルフの牽引者、赤星六郎らを感嘆させた。
東京GCの設計図を完成させた後、高畑の依頼を受けて関西に渡り、廣野ゴルフ倶楽部を設計することになるのだが、その途中に寄ったのが藤沢CCと川奈ホテルである。藤沢は赤星四郎に手によって設計され、すでに造成に入っていたが、レイアウト変更を指示。その図面はアリソンが帰国後、送られてきた。
川奈ではオーナーである大倉喜七郎男爵によって急遽、富士コースの設計を要請される。大島コースは大谷の手によって設計され、すでに営業も開始していた。富士コースも赤星によって設計図も完成していたが、新たにアリソンの手で書き直された。朝霞の設計図を見ていた赤星は降板も納得したという。
海が一望できる雄大な景観はアリソンを刺激し、アリソンの理念を実践する最高の舞台となった。全長7048ヤード、パー74。複雑な岩石の地形に悩まされながらも、1936年12月に完成し、当時東洋一のコースと絶賛され、世界アマ開催で世界にも知られることとなった。

オープン当初の川奈 富士コース

昭和11年頃の川奈でのプレー風景


廣野設計の前に大谷はアリソンを冬の京都の名寺に案内している。ここでアリソンバンカーの形を、雪の積もった藁葺き屋根をヒントにしたという人もいるが、バンカーのアゴがせり出してきたのは後年、プレーヤー達が砂をかきあげ、そこに芝が張り出したもの。もちろん砂の壁は垂直に近いほど切りたっていた。だからこのエピソードは後年の人の創作といわれる所以だ。

日本滞在中のアリソン
原状復帰に舵を切った廣野
廣野ゴルフ倶楽部は、アリソンは用地を見て名コースになることを確約したといわれる。レイアウト図は神戸オリエンタルホテルに1週間こもって書き上げた。用地は東西に長い三角形で、東西に2本の谷が走る。クラブハウスは用地の東端、アウトは時計回り、インは反時計回り。因みにこのレイアウト方式は師匠のコルトがスコットランド・リンクスの風を各ホール、違う方向から受けさせるために考案したもの。廣野は自然の景観と地形を活かして1932年に完成した。全長6725ヤード、パー73。工事監督は伊藤長蔵(日本初のゴルフ誌、ドムを発行)が勤め、その下で学んだ“剛腕”上田治が、後に改造を行い、全長6925ヤード、パー72とした。

廣野GCの5番

廣野GC5番ホールを「最も美しく、最も壮観」と称えたアリソンは景観を絵ハガキにして送ってきた
そして、現在、アリソンの設計図を門外不出としている廣野では、アリソンの原設計に戻すべく、レストレーション(原状復帰)が決定し、19年1月から工事に入る。

緻密なアリソン手書きの設計図
3ヶ月滞在で日本ゴルフ界に偉大な足跡
東京ゴルフクラブ朝霞、藤沢は現存しないが、川奈、廣野以外にも霞ヶ関カンツリー倶楽部東コース、鳴尾ゴルフ倶楽部、茨木カンツリー倶楽部東コースなどの改造アドバイスを行っている。その総てが今も日本を代表する名コースばかり。そして驚くべきは日本に滞在したのはたった3ヶ月だったことだ。その短い期間に日本ゴルフ界に偉大な足跡を遺したのである。
日本を離れたアリソンはその後、ヨーロッパでの造成プロジェクトに参画し、コルトが引退してからも設計事務所は維持した。1949年、南アフリカでのプロジェクトに加わり、その3年後、ヨハネスブルグにて永眠した。享年70歳であった。

藤沢CCでのプレー風景と思われる写真

鳴尾ゴルフ倶楽部