前回に取り上げた井上誠一と対比させると、上田治の貌(かお)がくっきりと浮かび上がる。
「東の井上」、「西の上田」。作風は「柔の井上」、「剛の上田」、「女性的」が井上、「男性的」が上田。「感性」の人で「文学的」が井上、「理性」の人で「理数」が上田。対比の鮮やかさが両者をして、甲乙つけがたい名匠ならしめている――。

廣野GC造成助手がきっかけ

 上田がコース設計家を目指すことになったのは、京都帝国大学農学部林学科卒業前に、チャールズ・ヒュー・アリソン設計の廣野ゴルフ倶楽部の造成現場に助手として加わったことに端を発する。

 現場造成監督は伊藤長蔵。伊藤は日本初のゴルフ専門誌『ドム』を創刊し、JGA(日本ゴルフ協会)創設に尽力した。上田がその伊藤に助手としてついた。

 それにしても、アリソンの名前がここにも出てくる。井上も彼に触発されて設計家の道を歩んでいるので、やはりアリソンは――2か月した滞在しなかったが――、日本ゴルフの恩人といわねばなるまい。そして井上、上田、日本ゴルフ設計の双璧といわれる2人はアリソンを師と仰いでコース設計家として大成したのである。

 そして上田は大学を卒業しても、廣野完成後、グリーンキーパーとして働く。林学だけでなく造園学にも興味をもっていた上田は、廣野で造園の実体験をすることになる。

画像: 上田治氏

上田治氏

五輪参加したアスリートの顔も

 ところで上田にはもう1つ、ゴルフではない競技のアスリートとしての顔を持つ。水泳である。

 茨木中学(現茨木高校)時代は100メートル背泳で、1922年、23年と日本新記録を樹立。1925年、26年、アジア大会の全身、第7回、8回極東オリンピックに出場し優勝している。1936年にはベルリンオリンピックに水上審判委員として参加しているのだから、まさに文武両道の才能の持ち主だったわけだ。

 そしてオリンピック終了後はイギリスに渡り、9ヶ月もの期間に及ぶ滞在で、欧米のゴルフ場を視察している。最初はスコットランドのセントアンドリュースから始まり、米国へは船で渡っている。

 欧米のゴルフ場を視察することが、上田をして日本を代表する設計家へと押し上げたことは間違いない。後に上田は「グリーン床は水はけのよい砂がいちばん」と、述べているのはリンクス体験が活きていたからだ。造園家としての血が騒いだに違いない。現在でいうサンドグリーン(全米ゴルフ協会仕様がNo.1とされる)のことだから、先見性があったといわれる所以だ。

 リンクスでは自然をハザードにすることも学んだろうし、米国のゴルフ場では重機を駆使し、図面通りのデザインに造りこむことも覚えたに違いない。それが後、剛腕といわれる作風を造り出す原動力になったのだろう。

 驚いたことに、これら欧米ゴルフ場視察の費用はJGAから捻出されていることだ。JGAがいかに上田に期待したかが理解できよう。

画像: 水球選手時代の上田治氏

水球選手時代の上田治氏

欧米視察が大器を芽吹かせる

 9ヶ月後、上田は廣野へ復職して、コース管理の傍らコース設計の研究を怠らなかった。

 そして1934年(昭和9年)、いよいよコース設計家として萌芽する時が来た。門司ゴルフ倶楽部開設への声がかかったのだ。

 門司駅から20分、櫛毛山麓の山林10万坪がその敷地。時の商工会議所会頭・出光佐三の学友で廣野GC役員の高畑誠一に頼み込み、上田を廣野に内緒で設計させたという。その設計図には下関要塞司令官検閲済の捺印があったというから、門司港が国際港であったことを裏付けるエピソードだ。

 レイアウトは戦略型のホールが多かった。名物の18番ホール(パー3)はグリーン手前まで池が迫り、リスクを賭けて成功した者だけが報酬を得るデザイン。

 コース完成に功のあった高畑、上田ラインで門司GCは“小廣野”と呼ばれた。

画像: 門司ゴルフ倶楽部

門司ゴルフ倶楽部

画像: 塩嶺カントリークラブ(長野県)

塩嶺カントリークラブ(長野県) 

画像: 岐阜関カントリー倶楽部(岐阜県)

岐阜関カントリー倶楽部(岐阜県) 

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