秩父連峰を遠くに望み、京都嵐山に似た武蔵の地に広がる丘陵風林間コース。文武両道設計家・小寺酉二の手になり、日本オープンも開催された名門。

東雲GCの代替地として、会員たちの奔走から生まれた

東京・銀座、大手町から車で15分という至近地に東雲GC(昭和27年開場)があった。ところが昭和30年代、湾岸道路計画が持ち上がり、この埋立地を都に返還することが決定。しかし、会員たちのゴルフへの情熱は断ちがたく、代替地探しに奔走。難航したが埼玉県菅谷村鎌形にたどりついた。会員たちの熱意がなかったら不可能だったろう。

画像: 東雲GCの代替地として、会員たちの奔走から生まれた

菅谷村鎌形は秩父山地から張り出した標高50~70㍍の舌状大地で、麓を都幾川が巡り、上流には京都の嵐山に似た渓流があることから、日比谷公園を設計した本田静六が「武蔵嵐山」と命名した。同コースも最初は武蔵嵐山CCと称していた。

プリスンストン大留学の小寺は1グリーン信奉者

遠くには秩父連峰も見渡せる風光明媚でもあった同地の25万坪に工事の手が入ったのは昭和35年11月。設計の大役を命じられたのは名手・小寺酉二(1897~1976)である。小寺は米国の名門、プリンストン大学に学び、ゴルフは赤星六郎に師事。戦前は日本アマ、関西アマで活躍、戦後はJGA(日本ゴルフ協会)でゴルフ界を牽引した文武両道の者だった。

小寺は米国でゴルフを覚えているがゆえに徹底したワングリーン主義の持ち主。設計した相模原GC東C、狭山GCでは1つのグリーンに高麗芝とベント芝を張り分けたコンビネーショングリーンを採用して、革命的といわれていた。一方、経営側はベント芝にとって過酷な日本の夏のリスクを考え、他のコースと同じく2グリーン制を主張。今では2グリーン制だと戦略的に“甘く”なることから、1グリーンが常識となり、名門コースのほとんどは1グリーンへと改造している。小寺には先見の目があったわけだ。

画像: 微妙な起伏を活かし、優美さと戦略性を併せ持つホールが続く

微妙な起伏を活かし、優美さと戦略性を併せ持つホールが続く

小寺は結局、1グリーンは譲ったが完成した18ホールは優美な造形に仕上がった。原形地の持つ微妙な起伏を見事に活かしきり、丘陵コース風で、松林でセパレートした林間コースの趣き。どちらかといえば平坦なアウト、起伏に富むイン。一方に傾かずバランスをとっている。フェアウェイは左右の傾斜、前後のうねりで独特の難易度を高めている。2ベントの2グリーンで、Aグリーンは起伏に富むやや小ぶりの砲台。グリーンを外した時のアプローチのスキルが求められる。Bグリーンは比較的平坦で微妙な傾斜に惑わされる。

日本オープンでの優勝スコアはJGAのセッティング通り

小寺の設計手法は自然を緻密な目で読み解くことにある。この点で絶好の素材を料理できた小寺の欣喜雀躍ぶりが想像できよう。またゴルフの腕前も上級者なので、戦略的にも計算しつくされている。チャンピオンコースとしての矜持は、メジャートーナメントを開催していることでも保たれている。

画像: チャンピオンコースとして計算しつくされたコースレイアウト

チャンピオンコースとして計算しつくされたコースレイアウト

1984年、日本オープン開催。勝利したのは上原宏一。スコア283(-5)。6405ヤード、パー72。当時、主催のJGAでは日本オープンでの優勝スコアは1日1アンダーにセッティングしていた。上原の5アンダーは見事にJGAが望んだスコア。これは開催コースに多くの許容度がなければ出来ないことだ。設計者・小寺の面目躍如といったところだろう。また日本オープン以前にも1976年、関東オープン(優勝、尾崎将司)、同オープン以後には2006年、日本シニアオープン(優勝、中嶋常幸)が開催されている。

“武蔵嵐山”のイメージは樹木の成長で、その面影をますます色濃くし佇んでいる。

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